はじめに

この小冊子は、1993年11月3日~5日にかけて開催された京都府立医科大学と同附属看護専門学校(附属医療技術短期大学)のトリアス祭(大学祭)の中で行われた、学友会大学支部・京都支部主催、トリアス祭協賛のOB・OG企画の講演「カルロスちゃんと共に」の内容をまとめたものです。

 

題名のカルロスちゃんとは、メキシコに住む1才2ヶ月の男の子です。日本だけで可能なリンパ管腫の新しい治療法に希望を託し、はるか太平洋の彼方から府立こども病院にやって来ました。しかし、カルロスちゃんの家族は経済的に余裕があったわけではありません。日本に行くための費用を、家や車を売って工面したのです。それを知り、私は「難病のリンパ管腫に苦しむ外国の患児を救うための基金」を設立しました。基金に対する反響は大きく、心温まる寄付が数多く寄せられました。

 

カルロスちゃん一家の窮状を「なんとかしてあげたい!」との気持で始めたことに、学生諸君が注目していました。今年の夏、トリアス祭での講演の依頼のため、医学部4回生の黒田雅昭君と看護学部2回生の黒木ゆかりさんが私に会いにきました。私は、いま話題になっているリンパ管腫に対するOK-432療法について話をするのかと思いましたが、そうではありませんでした。彼らの依頼は「本来の医師の在り方を講演して欲しい」でした。患児の治療のために、一所懸命になっている私の姿を見てくれていたのです。

 

学生諸君が医学を単に科学としてではなく、疾病を有する患者と対峙する人間性豊かな医師になるための学問として捉え、模索している事を知りました。医学生・看護学生の教育に携わってきた者として、これほど嬉しい事はありません。私の経験が役に立つならと、喜んで引き受けました。

 

講演は11月3日の朝10時から11時40分まででした。学会での講演と異なり、うまく話せなかった様に思います。そのため、講演の内容を小冊子にまとめる事にしました。伝えきれなかった事柄について、理解を深めてもらえれば幸いです。

 

1993年12月

著者記

プロローグ

医学生諸君、看護学生、医療スタッフの皆さん、そして、トリアス祭におこし頂いた皆さん。おはようございます。

 

皆さんは、小さな子供が、伝い歩きもできない赤ん坊が、病気のために死んでしまうかもしれないとわかった時にどうされますか? しかも、治す方法は遠く海を隔てた見知らぬ国にしかないとわかった時に、父として、母として、病に苦しむ子供のために何をしてあげられますか?

 

メキシコに住むヘラルド・ペレサレスさんは、難病に苦しむ長男カルロスちゃんの治療のために、はるか太平洋の彼方からこの府立こども病院へ助けを求めてきました。

 

毎日新聞メキシコ特派員の中井良則記者は、カルロスちゃんの両親の心情をサンデー毎日に寄稿しました。特派員シリーズ"奇跡の神に祈りが届け!難病のメキシコ男児が日本に賭ける「小さな生」"の冒頭部分にはこう書かれています。

 

「太平洋の向こう、メキシコから、"小さな命"が、そのか細い生を、少しでも長く紡げたら、と日本の医師に助けを求めてきた。1才2ヶ月の男の子、カルロスちゃん。母親の祈りが、胸に痛いほど響く。神様に届くだろうか。」

 

はるか東洋の国・日本へ、これほどの思いを込めて行こうと決心したカルロス家にいったい何があったのでしょう?

 

今日私は、なぜ、どうしてメキシコの患者が、京都へ来る事になったいきさつをお話ししたいと思います。

 
 
はじまりは国際電話

たしか去年の4月頃だったと思います。メキシコシティーから国際電話が入りました。大使館の医務官をしている森野高晴という方から、「メキシコ人の赤ん坊が先生の治療を受けたいと言っていますが、お話しをうかがえないでしょうか」というものだったと記憶しています。

 

この依頼はペレスアレス家にとって、長く苦しい闘病生活の中で見出した唯一の希望の道でした。

 
メキシコはどんな国?

メキシコについて、皆さんはどの程度ご存知でしょうか? メキシコは中南米地区の最北部に位置します。面積は、日本の5倍強。人口は約8,000万、このうち四分の一の1,800万人がメキシコシティーに住んでいます。

歴史的には、メキシコはマヤ、アステカに代表される古代文明が華麗に花開いた所でもあります。近代に至っては、石油を基盤に近代化を進めてきた国でもあります。

 
シュダー・ファレスは何処に

メキシコと米国の3,326kmに及ぶ国境線のほぼ中心地に、シュダー・ファレスという都市があります。国境を流れるリオ・グランデ川をはさみ、米国のテキサス州エルパソと隣接しています。エルパソは、西部劇ファンにはお馴染みビリー・ザ・キッドが活躍した町でもあります。

 

ここシュダー・ファレスは、マキラドーラ(保税加工業)が誘致され、急成長した砂漠の町です。日本の企業も進出しているそうです。

ヘラルド氏とパトリシアさんのプロフィール

カルロスちゃんの父ヘラルド・ペレスアレスさん(37才)は、マキラドーラ企業が工場で使う作業手袋や制服など、さまざまな用具の調達・納品している自営貿易業者です。米国のエルパソへ品物の買出しのために、何度も国境を越えていたそうです。母親のパトリシアさん(36才)は、歯科医を開業しています。

 

自由貿易業者と開業歯科医。ヘラルド氏は裕福な家庭を築き、敷地内に事務所もある大きな自宅に住んでいました。乗馬用の馬も所有していました。このような順風満帆の生活を営んでいたペレスアレス家の生活を一変させたのが、長男カルロスの誕生とその後の闘病生活だったのです。

 
カルロスちゃんのプロフィール

カルリートの愛称を持つカルロスちゃんは、ヘラルドさんとパトリシアさんの2番目の子供で、長男です。

 

パトリシアさんの妊娠経過は順調でした。特に変ったことはなく、胎児の異常も見つからなかったとのことです。夫婦は、二人目の子供を、米国で産むことにしました。シュダー・ファレスに住む人の多くは、子供の将来のためエルパソで出産するのです。米国内で生まれた子どもは、米国籍が取得できるのがその理由です。

 

1991年7月19日、エルパソのサウスウエスタン病院で、カルロスちゃんは産声をあげました。体重3,100gr、身長49cmの男の子でした。父親は赤ん坊の体を確認した時、頭の大きな子だとは感じましたが、病気には思えませんでした。しかし担当の医師は、カルロスちゃんの顔の下から首にかけて異様に膨れている事を示し、腫瘍であると告げました。ヘラルドさんは癌ではないかと考え、愕然としたそうです。

 

このサウスウエスタン病院には、カルロスちゃんの病気に対応できる設備も、専門知識を持った医師もいませんでした。救急車が呼ばれ、生後わずか2時間半のカルロスちゃんは、同じエルパソ市内のプロビデンス・メモリアル病院に移されることになりました。

その病院の新生児担当の医師はメキシコ移民の息子で、ヘラルドさんにスペイン語で詳しい病状を説明しました。病名はリンパ管腫。腫瘤が首の気管を圧迫し、呼吸困難を起こしているため、腫瘤を切除しなければ窒息死するかもしれません。医師によると、こうした幼児の手術を行える医師は、テキサス州の軍医とヒューストンにあるテキサス子供病院のブロス医師のふたりだけとのことでした。ヘラルド氏は、ヒューストンに行くことを決めました。

 
そしてヒューストンへ

エルパソからヒューストンまでは、約1,000kmの距離あります。そのため、ヘラルド氏は小型ジェット機をチャーターしました。しかし、嵐や竜巻のため飛行できない日が続いたため、カルロスちゃんがヒューストンに到着したのは生後6日目のことでした。空港に降り立ったのは夜中でしたが、救急車で病院に直行しすぐに検査が開始されました。その2日後に、ヘラルドさんはブロス医師から詳しい説明を聞きました。

 

生後10日目の7月29日に、最初の手術が行われました。呼吸を確保するため、気管切開が行われ、気管の穴にチューブが差込まれました。麻酔から醒めると、ミルクが食道を通過しない事がわかりました。リンパ管腫により食道が圧迫され、舌が押されて口の外へ飛出していたためミルクが喉を通らない状態なのです。そのため胃袋にも直接穴を開けてチューブを差込む、胃瘻造設術が追加されました。生きていくため、呼吸と栄養を確保するための手術です。

 

最初の手術から一週間後の8月6日に、ブロス医師はリンパ管腫に対する切除術を施行しました。しかし、血管や神経まで切る恐れがあったため、腫瘤は全部切れませんでした。ブロス医師は8ヶ月ほど後に再手術を行うことを、ヘラルド氏に伝えました。

 
カルロスがケーキを食べちゃった

ヘラルド氏が、毎日新聞メキシコシティー特派員の中井良則支局長に、冗談で語った言葉を紹介します。

 

「メキシコには、子どもは富や財産をもたらすと言う意味の、『子供はケーキを持ってくる』という諺があります。でも、カルロスは私たちが持っていたケーキを食べてしまいました」

 

カルロスちゃんが、まさに両親の持っていたケーキを食べ尽くす事になったのは、8月6日の手術の後からでした。しかし、誰を責めることもできません。当時、リンパ管腫に対する第一選択の治療法は外科的切除とされていたからです。

 
闘いはこの日から

この日から、ペレスアレス家の闘いが始まりました。夜、眠ることができなくなったのです。呼吸は気管に直接挿入されたチューブで行いますが、この気管チューブは気管分泌物でよく閉塞してしまいます。ヘラルド夫婦は、チューブが閉塞しないように交代で分泌物を吸引しました。

 

私どものこども病院のICUでは、症例にもよりますが、看護婦さんが交代で10分から1時間ごとに気管内の吸引を行っています。これを夫婦ふたりで、8ヶ月間も行ったのです。そのために、ふたりは米国で救急蘇生術のコースを3日間受け、また胃の中へ直接流動食を注入する栄養補給の方法も習いました。

 
何故病院でできないか

なぜ作業を病院側でしないのか?と疑問を持たれるかもしれません。それは経済的な理由からでした。米国の医療費は、べらぼうに高いのです。日本ではICUの入院料は1日47,000円。これに、気管チューブの吸引と胃瘻からの栄養投与で2,650円が加算され、計49,650円です。これに薬や治療が加わるとその費用が加算されますが、さまざまな制度により、日本では親に金銭的な負担がほとんどかかりません。

 

いっぽう米国では、ICUの入院費用は基本料が1日US$2,000 (約20万円)もかかります。さらに、治療費が加算されるのです。

 

出産前の検査で胎児に異常が発見されなかったため、カルロスちゃんは保険に入っていませんでした。夫婦は子供にかかりきりになり、もちろん仕事はできませんから、収入の道が途絶えてしまいました。さらに高額の医療費のため、経済的にどんどん落込んで行くことになりました。

 
これからの治療はどうすれば

なぜ作業を病院側でしないのか?と疑問を持たれるかもしれません。それは経済的な理由からでした。米国の医療費は、べらぼうに高いのです。日本ではICUの入院料は1日47,000円。これに、気管チューブの吸引と胃瘻からの栄養投与で2,650円が加算され、計49,650円です。これに薬や治療が加わるとその費用が加算されますが、さまざまな制度により、日本では親に金銭的な負担がほとんどかかりません。

 

いっぽう米国では、ICUの入院費用は基本料が1日US$2,000 (約20万円)もかかります。さらに、治療費が加算されるのです。

 

出産前の検査で胎児に異常が発見されなかったため、カルロスちゃんは保険に入っていませんでした。夫婦は子供にかかりきりになり、もちろん仕事はできませんから、収入の道が途絶えてしまいました。さらに高額の医療費のため、経済的にどんどん落込んで行くことになりました。

 
私の治療との出会い、日本が最善の解決策だ

ヘラルド氏は米国に行き、図書館で専門の学術論文を探しました。私の治療に出会ったのは、米国の小児外科専門誌 Journal of Pediatric Surgery の1991年3月号の論文でした。モンロイ先生もヘラルド氏も、日本が最善の解決策だと確信しました。これで、悪夢を終わらせ普通の家族に戻れる、と。

 
どうすれば連絡が、日本大使館への手紙

ヘラルド氏の次の課題は、どうやって私と連絡をとり、カルロスちゃんを診てもらうかでした。はじめにヘラルド氏は直接私あてに手紙を送りましたが、なぜか私のもとへは届きませんでした。そこで、ヘラルド氏はメキシコ市の日本大使館に手紙を送ることにしました。1992年2月17日付のその手紙には、こう書かれていました。

「私は、直接研究者グループと接触し、その業績についてさらに情報を得たいと考えています。ご好意に甘え、田中大使閣下と森野医務官のお力添えをお願いする次第です。息子カルロスの2回目の手術は3月に予定されております」

 

大使館医務官の森野高晴医師にとって、メキシコ人から日本の医療に助けを求められたのは初めてでした。ヘラルド氏の依頼は、森野先生を通じて私のもとへ届けられました。ここに初めて、メキシコの患児カルロスちゃんと私の間に接点が生じたのです。これが、1992年4月の事でした。

 
接点はできた

それから、カルロスちゃんの病歴や写真、超音波検査所見、CT、MRI 等が航空便で届けられ、早速治療の可能性の検討を開始しました。京都、メキシコシティー、シュダー・ファレスの間を、何度も電話やFAXが飛び交う事になりました。この頃、私はまだシュダー・ファレスが何処にあるか知りませんでした。メキシコシティーから何百kmも離れていると知ったのは、後のことです。

 

検討の結果、治療効果が望めると判断しましたが、メキシコから京都に来るのは大変でしょうから「治療方法の詳細を伝えるから、メキシコで治療してもらえないだろうか」と返事をしました。

 

しかし、モンロイ先生にとっては、メキシコでは全く知られていない薬を使う事になります。しかも米国では未認可の薬でした。さらに、患部が首という大事な場所なので治療には経験も必要です。これらの事からモンロイ先生は、京都に行くのが最善の方法である、という結論を出したようです。

 
治療のために京都へ行きたい

1992年当時、海外からの治療依頼は決してめずらしい事ではありませんでした。モンロイ先生からの返事を受け取った時点で、私はすでに海外22ヶ国57施設のリンパ管腫の患児を、同じような方法で治療していました。そのうちの幾人かは、治療のため京都を訪れていましたので、「治療のために京都へ行きたい」との申し出を、私はごく普通に受け入れることができました。

 

まず医療費の概算を知らせました。一泊US$100位の宿泊施設を希望していましたので、料金が安く、しかもバス一本で病院に通える三条烏丸ホテル京都を選び、予約しました。1992年10月の入院予定が決まり、検査の予定もこれに合せて予約しました。

 
学用患者の適応を

準備が整い、来日が近づいた8月の末頃でした。森野先生から「両親は自宅や車を売って医療費を工面しているようだ」「学用患者の適用など何か考えてもらえないだろうか?」という電話が入りました。

 

学用患者というのは、実験的な医療を受け入れる、あるいは学生の医学教育に積極的に協力する代りに医療費を無料にするという制度です。経済的に医療費が払えない人などが適用を受けていました。

 

カルロスちゃん一家は、決して余裕があるため京都を訪れるのではなかったのです。私は、メキシコの生活レベルを知りません。つい最近の新聞に、労働者の時給がUS$1.5と出ていました。彼らの家や車がいくらで売れたのか、見当もつきませんでした。そして、今までお話ししてきたカルロスちゃんの闘病生活は、すべて後に知ったことだったのです。

 
見た事もない国、会った事もない医者に

見たこともない国、会ったこともない医師の治療法に寄せる強い信頼に、そして子を思う親の心に、こみ上げてくる物がありました。またひとりの医者として、これほど嬉しいことはありません。なんとかしてあげたい!と、私は強く思いました。

 
ブラジルの母のエピソード

ここに、ひとつのエピソードをご紹介したいと思います。それは、ブラジルのビトリア市に住む母親からの手紙です。最初の手紙は、1991年8月12日付でした。しかし、手紙がポルトガル語だったため私には理解できず、先方にその旨を伝えました。その3ヶ月後に、再び手紙が届いたのです。

 

                    Vitoria, ES Y December 11, 1991

 荻田様:

 私の名前はマリア・リベイロです。贈物とメッセージ有難うございました。

 私は、1991年8月12日に手紙を差上げました。しかし先生はポルトガル語の手紙を理解しませんでしたので、私はその手紙を英訳します。

 私には左の顔にリンパ管腫のある赤ん坊がいました。赤ん坊は4ヶ月間病院にいました。医師は手術をしましたが、赤ん坊は、良くはなりませんでした。その後、医師は気管切開をしましたが、良い結果を得られませんでした。

 私はビトリア市に住んでいます。そしてこれらの手術は、リオ・デ・ジャネイロで行われました。手術の数日後、医師達は英語の医学雑誌にOK-432と呼ばれる薬をみつけました。それは、私の赤ん坊の顔と命を救い得るユニークな薬です。

 医師がその薬を発見したのは非常に遅過ぎました。なぜなら私の赤ちゃんは9月4日に死んでしまったからです。私の赤ちゃんは今安らかだと思います。神と共に天国にいると信じているからです。私の赤ちゃんはたった6ヶ月の命でした。私は微笑みを絶やさず他の子供と共に暮しています。彼は7才です。今私にはこの子だけです。

 どうか、私が貴方に送った写真、それは死ぬ前の赤ちゃんの写真です。そして私のもう一人の子供の写真です。写真を送り返して下さい。私がそれを貴方に送った時、私の赤ん坊が死ぬとは思いませんでした。それで、私にはあの子の写真が手元にありません。

 できる事なら、日本の風景の写真を下さい。私の赤ん坊が4ヶ月の命を永らえた病院にそれを掲げたい。そして、もう一つは私の家に掲げたい。

 貴方が、英知を他の人の幸せのために尽される事を願っています。そして、貴方が神の働き手である事を知っています。

 私は決して貴方の事を忘れません。そして私はいつも、貴方と貴方の病院の友人のために祈ります。私は先生に、イエスが貴方を愛し、そして彼のみが神である事を知って欲しいと思います。

 貴方がイエスを受け入れ、そして彼を信じる事を願っています。

 私は、貴方がいつも次の言葉を思う事を願っています:詩篇23章、神が私の牧者だから、私は必要な物は全て持っている。

 もうここで止めましょう。貴方が科学のために成された事に大変感謝いたします。

 神の祝福がありますように。

 

 この母親の子供は、最新の治療法を知るのが遅かったために、失われなくてよいかけがえのない幼い命を召されました。この淡々とした手紙を読むたびに、母親の心情を思い胸がつまります。目頭にこみ上げてくるものを、私はこらえませんでした。

 
外国に生まれたリンパ管腫の子供は

外国で生まれたリンパ管腫の子供は、日本で開発された特効薬の存在さえ知らず、死に脅え続けることになります。貧しい家の子供は満足な治療も受けられず、死をむかえるしかない。こんな不合理な事はあってはならないと思います。

 
私の精神的なバック・グラウンド

私は、キリスト教徒ではありません。また、信心深いわけでもありません。私の精神的なバック・グラウンドの多くは、私の母親に依拠しています。母は一昔前の日本の母親なら誰でもそうであったように、「ひと様に後ろ指を指されるようなことはするな」「自らに誇りを持ち、信ずる所を行え」を信条とした生き方をしていました。

 

 私の家は貧しくはありませんでしたが、男兄弟が4人もいましたから、贅沢はできませんでした。母親は子供のために、自らの楽しみをずいぶん我慢していたことでしょう。他人のためにできる事はしてあげたい、この姿勢はおそらく母親の姿を見て培われたように思います。

 
中・高はミッションスクールで

私は中学・高校を神戸市の六甲学院で過しました。ここは、カトリック系イエズス会の経営するミッション系の学校でした。ここを選択し、入学させたのは父親でした。父は受験校ということよりもその教育方針に心酔し、私に受験させたのです。

 

学校では、「公共要理」という名の宗教の時間がありました。キリスト教の教えについて、神父さんから教えを受けました。他人に対する奉仕・献身の精神は、この時の影響もあるかと思います。宗教としては受け入れていませんが、その教えから得る物は多大でした。

 
なんとかしてあげたい

「カルロスちゃんを、なんとかしてあげたい!」の気持から、私は早速医事相談係に相談しました。しかし学用患者の制度は、その時すでに廃止されていました。京都府や京都市にも、見知らぬ外国から訪日する子どもを援助する制度はありませんでした。

 
糸口は黒柳徹子

解決の糸口は、身近な所にありました。私は仕事の話をあまり家庭に持ち込まないのですが、カルロスちゃんの経緯は妻に話をしました。私の家内はどういうわけか、「UNICEF・黒柳徹子係」とか「野村由井乃ちゃん基金」などの援助基金へ幾許かの寄付をすることで、社会福祉に参加していました。

 

御記憶の方もおありかと思いますが、「野村由井乃ちゃん基金」は私どもの患児で先天性胆道閉鎖症という病気を患った野村由井乃ちゃんに、オーストラリアで肝移植手術を受けさせようとご両親やその知人が募られた基金です。

 

日本の子供が、外国に大切な肝臓を貰いに行っているのだから、日本の医療を必要とする外国の子供に援助してあげても良いのではないか、と考えました。

 
基金を作ろう

援助のための基金を作ろうと思い立ったものの、報道機関に取り上げてもらえるのか不安でした。以前、オランダのリンパ管腫の赤ちゃんが私たちのこども病院に入院・治療した時に、取材に来られた新聞社に手紙を書きました。1992年9月3日のことでした。

 

幾日かして新聞社から電話があり、取材に伺いたいとの嬉しい返事を頂きました。しかし基金設立には解決しなければならない問題がありました。ペレスアレス家のプライバシーをどうするか、ということです。何とかして欲しいと言って来られたのは森野高晴医務官であってペレスアレス家ではなかったので、彼らの了解を得る必要がありました。

 

プライバシーの問題はすぐに解決されました。毎日新聞メキシコ支局・中井良則記者から取材が入り、治療法の事を聞かれました。その後、9月12日発行の毎日新聞東京版に「息子の難病なおして」という見出しで、カルロスちゃんの記事が新聞に掲載されました。一部紹介いたします。

 

「難病のリンパ管腫に生まれつき苦しむメキシコの1才の赤ちゃんが、家族と、主治医に連れられ、10月、治療のために来日する事になった。日本だけで可能な新しい治療法があり、これに希望を託す。費用を捻出するため、自宅や車を売り払った両親は、『日本がこの子にとって唯一の解決の道だ。同じ病気で苦しむほかの多くの子供たちにも、この治療法が利用できるようになって欲しい』と日本の治療法に期待をよせている。」

 

 以下は省略させて頂きます。

 
援助が押売りにならないように

次の問題は、援助を受け入れてくれるか? ということです。メキシコ人は誇りの高い人種だそうです。善意の押売りをするわけにはまいりません。ましてや、家や車を売って費用を工面しようとしたペレスアレスさんの気持を害することなく、基金を受け入れてもらえるにはどうするか、基金の事が報道されるまでにはずいぶんと紆余曲折がありました。

 

最終的に、森野先生から、直接ペレスアレス家に、基金の説明と受け入れについて問い合せて頂いたところ、「基金について何も聞いていなかったが、そういうお話しがあれば嬉しい」との伝言を頂きました。

 
 
メキシコ大使館と日本大使館、どちらの医務官

と申しますのは、私は森野医務官をメキシコ大使館の医務官と誤解していたのです。実際は、在メキシコ日本国大使館医務官であったわけです。この混乱は、カルロスちゃんに関する資料が、東京にあるメキシコ大使館から郵送されてきた事から始まったのです。当然、メキシコ大使館はカルロスちゃんの事をよく知っているわけです。それで私が「実は現在、ペレスアレス家の経済的な事も援助するように基金の準備を進めているが、彼らに援助を受ける用意はあるか確認して欲しい」と東京のメキシコ大使館に申し入れました。

幾日かして、東京のメキシコ大使館の大使から返事が来ました。その答えは、「お金はできたから結構です。」との事でした。新聞社の人とも相談したうえで、基金を中止することにしました。

その直後に、森野先生から電話がありましたので、「ペレスアレス家の方では、お金の事は自分たちでするとの事なので、特に経済的な問題は無いようです」と申し上げました。すると森野先生は、基金の事は何も聞いていないし、ペレスアレス家に伝えてもいないと言うのです。森野先生がペレスアレス家に問い合せても、基金の事など聞いていないと言う事でした。ただ、東京のメキシコ大使館から、医療費の支払いに関する問い合せが数回きて、支払い能力に関しての調査が行われたとの事でした。ペレスアレス家としては、車や家を手放して資金を用意したのに、度々東京のメキシコ大使館より「大丈夫か」「大丈夫か」と聞かれていささか頭にきてしまい、電話をはずしてしまったとの事でした。

森野先生によりますと、東京のメキシコ大使館の立場とすれば、もし支払い能力が無いままに日本に来て京都府立医科大学に迷惑をかけた場合に、メキシコ大使館で支払わなければならないという状況を鑑みてのことのようでした。

そういうお話があれば嬉しい事です

このとき、私は初めて森野先生がメキシコシティーにある日本国大使館の医務官で、東京のメキシコ大使館の医務官でないと言う区別ができました。

最終的に、森野先生から、直接ペレスアレス家に、基金の説明と受け入れについて問い合せて頂いたところ、「基金について何も聞いていなかったが、そういうお話しがあれば嬉しい」との伝言を頂きました。

 
カルロスちゃん基金は報道された

このような経過を経て、京都新聞社会部の川村一郎記者によって1992年9月22日の朝刊で「カルロスちゃん基金」が報道されました。その後、毎日新聞・浦窪学記者ならびに鴨志田公男記者、朝日新聞・村山知博記者、読売新聞・竹村登茂子記者の各新聞をはじめ、さまざまなメデイアに好意的に取り上げられました。

 
基金に対する反響は大きく

基金に対する反響は大きく、心温まる寄付が数多く寄せられました。一部を紹介いたします。

 

「失業中ですが、予定していた外出を取りやめ、その費用を送ります」あるいは「こども病院にお世話になり子供の一命を取り留めさせて頂きました。にもかかわらず、公費負担制度のお陰で費用はほとんどかかりませんでした。わが子にかかった医療費のつもりで分担させて頂きます」という匿名の手紙と20万円が私の郵便boxに入れられていました。

 

また、「私の孫、9才は、5月31日の夜、府立こども病院にて、リンパ性白血病で短い命を絶ちました。毎日胸がはりさける程悲しい辛い日々です。皆で助けようと一生懸命でしたが、やはり悔いが残ります。もっともっと出来る事があったのではないかと悔んでいます。こんな思いは二度としたくないと思います。どうぞカルロスちゃんを助けてあげて下さい」とのお手紙を頂きました。

 

なかでも嬉しかったのは、私の治療が無効であったにもかかわらず、「同じ病気で苦しむカルロスちゃんへ。先生、頑張って下さい」の手紙を頂いた時でした。

 

本学でも、個人や職場単位で、温かい励ましと伴に善意のご寄付を多数頂きました。

 
足立看護婦はボランティアとして

同じこども病院のICUに勤務する看護婦の足立は、青年海外協力隊員として2年間ボリビアへ赴任していました。この人がボランティアでスペイン語の通訳をしてくれました。京都外国語大学スペイン語研究会の学生諸君にも、通訳のボランティアをして頂きました。こども病院4号病棟の錦婦長はじめ看護スタッフは、スペイン語の想定問答集を作成し、待機してくれました。

 
カルロスちゃんはやってきた

1992年10月4日、カルロスちゃんは全日空39便で日本へやってきました。私は、足立看護婦とともに出迎えに行きましたが、カルロスちゃん一家に会った瞬間にいい人達だなと感じました。愛くるしい7才の姉ジェシカちゃんを見た時、両親が子どもに温かい愛情を注いでいることに確信が持てました。後で判った事ですが、シュダー・ファレスから大阪までは、飛行機を乗継いで約25時間かかります。さすがにお疲れのようでしたので、伊丹から空港バスで八条口まで来て、それからタクシーで三条烏丸ホテル京都へお送りして、その日は終わりました。

 
病状は思っていたより重大でした

入院は翌10月5日からでした。5日と6日に検査を施行しましたが、その結果大変な事が明らかになりました。入院前に送られてきたCT、MRI等は手術を受ける前のもので、実際の病状は思っていたより重大だったのです。私どもの治療が有効な嚢胞型のリンパ管腫は、手術により潰されていました。米国での手術により、リンパ管腫相互が有する連絡が寸断されていたのです。舌にもリンパ管腫がひろがっていました。予定していた10日間の入院では十分な治療はとても無理でした。

 

根本的な治療には1回の治療に約1ヶ月間の滞在を必要とします。治療回数も数回必要です。そこで、一応基金の目度もついたので、短い滞在でできる部分の治療を行い、一旦帰国といたしました。治療は、10月7日と10月12日の2回、左頸部と左下顎部に局注を行いました。

 
スライド、OK-432療法って何

ここで、リンパ管腫とOK-432療法について、スライドを用いて説明したいと思います。

リンパ管腫の診断時の年齢とその頻度を示します。2才までに約75%が発見されています。その他が5%報告されています。成人になって診断される人もいるということです。私自身、50才台位の患者さんを数人経験しています。

 

部位別では、頸部に最も多く、ついで腋下、頬部、胸壁の順です。タイプ別では、嚢胞状型は頸部に多く、海綿状型は、舌や頬に多く認められます。

 

リンパ管腫では、神経や血管はリンパ管腫の中を、空中ケーブルの如く走り、これら重要な臓器を損傷しないようにリンパ管腫だけを摘出するのは極めて難しいことです。あるいは、不可能です。

 

外科手術に伴う合併症として神経や血管などの重要臓器の損傷、機能障害、再発、醜形、などが報告されています。再手術は困難です。

 

OK-432と呼ばれる免疫療法剤は、癌患者の免疫力を高め、癌を治そうとする薬です。OK-432は、通常皮膚内に注射して使用しますが、投与した皮膚に強い炎症を起こすことが知られていました。しかし、この炎症は痕跡を残さず綺麗に治癒する事も知られていました。

 

リンパ管腫は、感染を契機に自然に治癒する事が知られていました。しかし、期待するには極めて稀な事でした。そこで、リンパ管腫に炎症をおこして、治そうとする試みがされました。しかし、うまくゆきませんでした。

                 

私と当時こども病院で一緒に働いていた助手の伝先生とで、このOK-432がリンパ管腫の治療に使えるのではないかと考え、種々の準備の後に試みる事になりました。最初の患者さんは知人の子供さんでした。

 

治療開始約4ヶ月後には、右肩のリンパ管腫が綺麗に治っています。表面の皮膚は正常の皮膚と変わりありません。美容的にも極めて満足すべき結果でした。

 

最初の外国からの患者さんの名前は、シッツァ・デ・ヨンちゃんです。生まれてすぐに、リンパ管腫のために呼吸困難になりました。リンパ管腫は、両側の下顎から頸部に認められます。気管の内腔にもリンパ管腫が顔を出していて、気道を閉塞していました。気管内のリンパ管腫は、オランダで治療されました。しかし、呼吸状態は回復せず、気管切開が必要と判断されましたが、リンパ管腫が厚く、危険と判断されました。呼吸を確保するために、鼻から気管内にチューブが挿入されました。もう一方には、栄養補給のためのチューブが入っています。

 

この子は、生まれてからずっと7ヶ月もの間 ICUを出ることができませんでした。オランダで最も医療費のかかる子供でした。それで、京都に行って治すことができるなら是非そうして欲しいとのことで、保険会社の全額負担で京都へ来ることになりました。

 

治療後、7~10日目に危険な時期がありました。この治療では、リンパ管腫は一時、治療前よりも腫れ上がります。この子も、気管の周りのリンパ管腫が腫れ、気管を圧迫したのです。そのために、呼吸が困難になりました。鼻から入っている気管チューブを少し、ほんの5mm位押し込むと呼吸は元にもどりました。その日は、受け持ちの出口先生が当直でしたので、後はよろしくと言って、いったんは病院を出ました。しかし、阪急河原町駅まで行って、やっぱり気になり、その日は病院に泊まりました。

 

数ヶ月して、オランダより送られてきた写真では、首の周りのリンパ管腫は縮小し、当初の目的である気管切開ができ、ICUから無事にでられ、そして家に帰る事もできましたとのお礼の手紙を頂きました。

 

今年の7月、オランダのナイメーヘン大学へ招待され、この治療法の講演を行ったときに再会いたしました。すっかり大きくなり、ふつうの子供と同じように遊んでいるとのことです。ただ、長い間声帯に気管チューブがあたっていたので、喉頭部の機能が悪いとのことでした。

 

米国では、OK-432は認可されていません。アイオワ大学の小児耳鼻咽喉科のスミス教授は私のOK-432療法の有用性を認め、米国の医師の卒後教育の特別講演に私を招きました。さらに、米国での認可をとるための共同研究を提案し開始いたしました。

 

アイオワ大学では、臨床指導もしました。私は米国の医師免許を持っていませんので、レジデントの後ろでアレコレ指揮して、間接的に治療しているところです。

 

後ろで野球帽をかぶった女の子、名前をシャウナちゃんといいます。病名は、骨のリンパ管腫でゴーハム病といいます。骨に浸潤したリンパ管腫は、骨を融解していきます。この病気の最初の報告は、ボーンレス・アームつまり骨の無い腕として報告されました。

 

この子のリンパ管腫は右の第2肋骨周辺から右の肩関節に広がっていました。右の第2肋骨の半分が既に融解し、胸水貯留のために呼吸困難がありました。お父さんは整形外科医で、娘の病気を正確に診断しました。同時に治療法が無いことも知り、絶望の中で悲嘆にくれていました。そのときに私の治療法を知り、連絡してこられました。実は、私もそのような病気があるとは知りませんでした。お父さんから送られて来た文献で病態を勉強いたしました。

 

私は、治療法を書いて薬と共に郵送しました。患児はシカゴに住んでいますが、私の治療法を持ってサンフランシスコの高名な小児外科医の所へ飛びました。治療が始まると毎日のように、時には1日に2回以上、治療経過の報告と共に、その処置についての問い合わせがファクシミリで送られてきました。時間単位で治療の方法や、その経過の説明をしたこともありました。

 

病気の進行が止まり、元気に回復したときのお礼の手紙です。

 

アイオワ大学での講演の帰路、シカゴのおうちへ招待され、行って来ました。シャウナちゃんとご両親です。聡明なお子さんで、お父さんのご自慢です。

 
マリアッチに迎えられて

次にビデオを供覧します。これは、1993年の6月に米国のプロビデンス・メモリアル病院およびメキシコのセントロメデイコ病院から招かれ、病院病理部の土橋部長とともに訪れた時のものです。

 

長時間フライトの後、ねむけ眼で空港に出て、ビックリしました。なんと、楽団の演奏するマリアッチに歓迎されたのです。

 

アメリカでもカルロスちゃんやOK-432療法の事が新聞やTVで報道され、「カルロスちゃん基金アメリカ」が創設されました。

 

私もTVのインタビューを受け、リンパ管腫の事やOK-432療法の説明をしました。

 
滞在中のビデオ

順序は後先しますが、去年カルロスちゃん一家が滞在中のビデオを供覧します。ビデオは、読売テレビ京都支局の前田武志記者により制作されまた。

 
今年もクリスマスは京都で

カルロスちゃん一家は、今年のクリスマスを再び京都で過す事になると思います。基金の援助により、12月5日の来日が予定されています、6日より3週間入院し、治療を行います。気管や食道を圧迫しているリンパ管腫の治療が第一目標です。最初に外科手術を受けたために、カルロスちゃんの治療は大変難しいものになっています。父ヘラルド氏もその事はよく理解しています。

 
自らの神を信じて

太平洋のかなたメキシコから飛行機を乗継いで、見知らぬ国で、見知らぬ医師に最愛の息子の命を託す不安は如何ばかりでしょうか。

 

自らの神を信じ、奇跡の神に祈りが届けとばかりに私たちの元を訪れました。でき得る限りの事をしてあげたいと思います。

 
OK-432 therapy in the world

日本では、北海道から鹿児島までの37の施設と共同研究をし、現在厚生省へ保険診療のための許可を申請中です。

 

海外では、アジア、アフリカ、ヨーロッパ、スカンジナビアそして南北アメリカの合計33ヶ国、92施設で治療が試みられています。

 

今年は、米国のエルパソとアイオワ、メキシコのメリダ、イタリアのパドヴァ、オランダのナイメーヘンへ招かれて治療についての講演をしました。英国のマンチェスターへは学会発表にでかけました。

 

しかしながら、世界にはまだ、日本で生まれた特効薬の存在さえ知らず、掛替えの無い命が父や母の元から奪われています。

 
なんでこんな所まで

メキシコのユカタン半島にあるメリダ市を訪れた時、毎日新聞メキシコ支局長の中井良則さんに「なんでこんな所まで」と聞かれました。

 

「臨床において、新しい治療法を発見する事は極めて困難なことです。そして、発見した治療法が有用であり、多くの人に受け入れられるという事は、極めて稀な事です。

 

太平洋を隔てた国に、私の開発した治療法を必要とする患者がいる。そして、私の助けを必要とする人々がいる。医者として、医学の研究に携わってきた者として、これほど嬉しい事はありません。医者冥利につきます。私の知識や経験が役に立つなら、私は何処にでも出かけて行きます。」私は、この様に答えました。

 

つい最近、スエーデンの学会から、来年5月のスカンジナビア小児外科学会でOK-432療法について話さないか、と招待状も受け取りました。

 
セントジュードホスピタルから

ここで、小児癌の研究で有名な米国のセントジュードホスピタルからのメッセージをご紹介し、結びの言葉といたします。

 

Precious Life

 

Life is a precious gift.

Most people never realize the value of life until faced with death. For children with cancer or other rare childhood disease, this lesson comes early - too early. Before they ever learn to live, some must learn to die.

 

While many children lose their battle against these dread disease, thousands more survive. Thanks to the staff at St. Jude Hospital and their life-saving research.

 

Twenty years ago, children diagnosed with leukemia were offered little hope. Today, because of research, childhood leukemia is considered curable.

 

St. Jude stands on the threshold of a dream - that someday no child will lose his/her life to catastrophic illness. But there is still much work to be done, more disease to conquer.

 

You can help make this dream a reality by sending your tax-deductible gift to St. Jude.

Give the gift of life.

 

掛替えの無い命:

 

 命は、掛替えの無い贈物。多くの人々は、死に直面するまでその価値に気付かない。癌やその他の稀な病に侵された子供たちにとって、この試練は早くに訪れます ― あまりにも早く。

 生きる事を学ぶ前に、あるものは死を学ばなければなりません。多くの子供たちが、これら恐ろしい病との戦いで死にゆく一方で、幾千を越える子供たちが生き延びています。セントジュードホスピタルのスタッフ、そして彼等の命を永らえる研究に感謝します。

 20年前、白血病と診断された子供には、僅かの望みしか与えられませんでした。今日、研究によって子供の白血病は、治す事が可能な病気と考えられています。

 セントジュードホスピタルは、夢の戸口にたっています。 ― いつの日にか、いかなる子供も破滅的な病で命を落とす事はもはや無いといえる日が来るという、夢の戸口にいます。しかし、多くの病が克服されるために、しなければならない仕事はたくさんあるのです。

 
最後に

ここにお集まりの、医学生、看護学生、そして病院のスタッフの方々は、まさにこの夢の戸口に立っておられるのです。どうか貴方がたに与えられた優れた能力を、医学の研究に、そして病に苦しむ人々のために、献身的に捧げて下さい。そして今、医学生諸君、貴方が謳歌しておられる幸福な人生を、患者やその家族の皆さんが味わえるように、分け与える努力をして頂きたい。それを期待して、この講演を終わらせて頂きます。

 

長い間のご静聴有難うございました。Muchas Gracias.

 
あとがき

子を慈しむ親の愛情に、そしてその姿に共鳴する人々の心情に、言葉や、国や、宗教などによる違いはありません。日本での事が、米国のテキサス州やメキシコのチワワ州で報道されると、彼の地でも援助のためのキャンペーンが行われ、「カルロスちゃん基金・アメリカ」が設立されました。経済的な理由で最先端の治療を受けられない子供たちを支援する基金で、アメリカ大陸に住む子供達が対象です。

 

カルロスちゃん一家は解決の糸口を見つけました。しかし、外国に生まれたリンパ管腫の子供は、特効薬の存在さえ知らず死に脅え続けています。最新の治療法を知るのが遅かったために、失われなくてもよいかけがえのない命が召されています。貧しい家の子は、満足な治療も受けられず、死んでゆくしかありません。

 

研究によって、僅かの望みしか与えられなかった病気が、治す事が可能な病気となっています。しかし、研究の成果は病に苦しむ全ての人々が享受できるように努力しなければなりません。専門雑誌への投稿、国際学会での発表・講演、専門外の人達への啓蒙、経済的な問題。多くの病が克服されるためにしなければならない仕事は、たくさんあります。これらのことを、私はカルロスちゃんとの関わりを通して、学生諸君に伝えたく思いました。この小冊子が「本来の医師の在り方」を模索する学生諸君の一助になることができれば幸いです。

 

追記:薬事法第7条の2第1項の規定に、稀少疾病用医薬品の指定の件があります。厚生省告示第41号で、OK-432はリンパ管腫にたいする稀少疾病用薬品の指定を受け、告示されています。(官報1286号)

 

なお、この講演のうち、カルロスちゃんの出生からメキシコ大使館の森野医務官への接触までの事柄については、毎日新聞メキシコ特派員中井良則支局長がサンデー毎日に寄稿された記事「難病の男児が日本に賭ける小さな生」('92.10.11号)を参照させて頂きました。

 

荻田修平

 
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NPO International Lymphatic Malformations Network